鎌倉極楽寺駅近くの「阿仏尼邸跡地」を見てきました。

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阿仏尼邸跡地の石碑

鎌倉時代を代表する中世三代日記の『十六夜日記』の作者である阿仏尼は京都から鎌倉へ来ています。
その時の阿仏尼邸の跡地が極楽寺駅周辺に残されています。

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阿仏尼邸跡地の場所

阿仏尼邸跡地付近の踏切

極楽寺駅から南の方へ300m程歩いた線路沿いに阿仏尼邸がありました。
現在はこの踏切の先に舊蹟として石碑が建っています。

ではこの踏切を渡ります。

 

阿仏尼邸跡地の石碑

これが阿仏尼邸の舊蹟です。
阿仏尼は京都から鎌倉まで三島や箱根を通りやってきます。

理由は、藤原為家死後に播磨国にあった細川荘という地の相続問題が発生し、藤原為家の子の二条為氏が細川荘を押領したことに対して鎌倉幕府に訴えるためです。
阿仏尼は藤原為家の側室であり、後に子である為相が生まれましたが、先の妻の子である為氏が遺産を相続したことを訴えに来たのです。

阿仏尼邸跡地の石碑の文字

この石碑に書かれている文字は
”阿仏尼ハ藤原定家ノ子為家ノ室ニシテ和歌ノ師範家冷泉家ノ祖為相ノ母ナリ為相ノ異母兄為氏為相二属スベキ和歌所ノ所領播磨細川ノ庄ヲ押領セ出ヲ以テ之ヲ執権時宗二訴ヘ其ノ裁決ヲ乞ハントシ建治三年京ヲ出デテ東二下リ居ヲ月影ガ谷ニトス即チ此ノ地ナリ其ノ折ノ日記ヲ十六夜日記ト云ヒテ世二知ラル係爭久シキ二彌リテ決セズ弘安四年遂二此二歿ス”
とあります。

現代語に訳すると
”阿仏尼は藤原定家の子である為家の側室で和歌の師範である冷泉家の為相の母でもあります。母の異なる兄である為氏が為相のものであるはずの播磨国の細川荘を押領したことで、執権北条時宗に訴えてその判決を貰おうと建治3年の1277年に京都を出発して月影ガ谷、つまりこの場所に住みました。その時の日記は十六夜日記といい世の中に知られています。係争は長きに及んで判決が下ること無く弘安四年遂にここで亡くなってしまいました。”
となります。

 

阿仏尼はここから「問注所」へと通ったはずです。
ただ気をつけたいことは阿仏尼の時代の問注所は場所が違います。

かつて問注所は大蔵幕府の東西の廂に作られましたが、これを源頼家の時代に現在の問注所の場所に移されています。
阿仏尼は鎌倉時代後期の人物ですから、阿仏尼が通った問注所は大蔵幕府にあった場所ではなく、現在の御成小学校付近の問注所だと推測できます。

 

阿仏尼邸跡地の歌

阿仏尼は京都から鎌倉まで下りましたが、結局判決が出ること無く生涯を閉じてしまったようです。