【源頼朝が開いた大蔵幕府へ】東門と西門へ行ってみました。

 

鎌倉幕府はまず大蔵幕府で開かれ、その後「宇津宮辻子幕府」そして「若宮大路幕府」へと遷っていきます。
ここは源頼朝が開いた鎌倉幕府最初の土地です。

 

関連:鎌倉幕府の場所と史跡を巡る『大蔵幕府⇒宇都津宮辻子⇒若宮大路幕府』編

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大蔵幕府

大蔵幕府は源頼朝が開いた最初の鎌倉幕府です。
そのため源頼朝の歴史とも関係が深い場所で、大蔵幕府跡地の北にある法華寺には源頼朝の墓があります。

大蔵幕府跡地

大蔵幕府跡地

大蔵幕府は鶴岡八幡宮からも近い場所にあります。
現在は清泉小学校付近に大蔵幕府舊蹟として石碑があります。

 

大蔵幕府跡地の石碑

これが大蔵幕府跡地舊蹟です。

ちなみに『吾妻鏡』によると、建久二年の火災が起きた時には鶴岡八幡宮まで燃えてしまい、ここ大蔵幕府も焼失してしまいます。
『吾妻鏡』にもあるように小町大路からの出火でこの付近まで燃えてしまったことから南風の強い日だったようです。

 

この時源頼朝は火災から逃れるために避難しています。

 

大蔵幕府跡地の石碑

この石碑には

”今ヲ距テル七百三十七年ノ昔治承四年源頼朝邸ヲ此ノ地二營三後覇權ヲ握ル二及ビテ政ヲ此ノ邸中二聽ク所謂大藏幕府是ナリ爾来頼朝實朝ヲ経テ嘉祿元年政子薨ジ幕府ノ宇津宮辻ヘ遷レルマデ此ノ地ガ覇府ノ中心タリシコト實二四十六年間ナリ”

現代語にすると、

”今から737年の昔の治承四年に源頼朝邸をここに建て、権力を得てからはこの地で政治を行ないました。いわゆるこれが大蔵幕府です。それから頼家、実朝、1225年に北条政子が亡くなり、宇津宮辻幕府に遷るまでは46年間でした。”

となります。

 

東門跡地

東御門跡地の石碑

清泉小学校の東から少し北に行った道路沿いに「東御門」の石碑があります。
ここは先ほどの大蔵幕府舊蹟から徒歩で5~10分程の距離にあり、鎌倉大蔵幕府の東御門はこの付近にあったといえます。

 

東御門跡地の石碑

この石碑には文字が刻まれています。
ここにその文字を書き起こすと
”大蔵幕府二四門アリ方位ヲ以テ名ヅク其東二アルモノヲ東御門ト謂フ今轉ジテ地名トナル法華堂ノ東方一帯ノ地即チ是ナリ”

とあります。

現代語に訳すると
”大蔵幕府には4つの門があり、その方位によって名付けられました。大蔵幕府の東にある門は東御門と言います。今はこれが転じて地名になっています。法華堂の東一帯がこの地名です”
となります。

 

西門跡地

西御門跡地

これが「西御門」の石碑で、隣には横浜国立大学付属小学校があります。
ここは東御門からも距離があることから当時の大蔵幕府が大きかったことが伺えます。

この石碑に書かれている文字は
”西御門ハ法華堂西方ノ地ヲ謂フ大藏幕府西門ノ前面二當レルヲ以テ此名アリ報恩寺保壽院高松寺來迎寺等此地二在リ今高松來迎寺ノ二寺ヲ存ス”
とあります。

現代語に訳すと
”西御門は法華堂の西の土地のことを言います。大蔵幕府西門の前にあるためこの名前になっています。報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺などがあり、今は高松来迎の二寺があります。”
となります。

 

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大蔵幕府の地は風水最高の地

大蔵幕府は玄武・青龍・朱雀・白虎の四神最高の地です。
源頼朝の死後、大蔵幕府から宇津宮辻幕府へ遷すにあたっては議論が沸き起こります。

”嘉祿元年十月大十九日丙午。…爰地相人金淨法師申云。右大將家法華堂下御所地。四神相應最上地也。何可被引移他所哉。然者彼御所西方地被廣。”『吾妻鏡

と金浄法師が「移設」ではなく「大蔵幕府が四神最上の土地であることから西側に御所を広げたほうが良い」と申します。

 

しかし、この後大蔵幕府から宇津宮幕府へ遷すことを決めます。
『吾妻鏡』によると宇津宮辻子幕府へ遷すか議論をした際に7人の陰陽師に占いをしてもらいます。
その際に

”嘉祿元年十月大廿日丁未。…其上安右幕下御廟。其親墓高而居其下。子孫無之之由見本文。幕下御子孫不御坐。忽令符合歟。”『吾妻鏡

これは源頼朝のお墓の場所が子孫が住む地よりも下にあると子孫は絶えてしまうということです。
この嘉祿元年にはすでに源頼朝の子孫は絶えてしまっていますのでこの占いには信憑性があります。

 

そして、

“嘉祿元年十月大四日辛卯。…可被破却舊御所云々。”『吾妻鏡

1225年に舊御所を壊して新たに宇都宮辻子幕府へ移すことを決めました。
『吾妻鏡』では、この理由として若宮大路は四神最上の地(東に滑川、南に海、西に武蔵大路、北に大臣山)であることから宇津宮辻子幕府へ遷すとあります。