鎌倉幕府の問注所が有った場所へ。歴史をわかりやすく解説します。

当サイトでは広告プログラムを利用しております。
当サイトでは広告プログラムを利用しております。

 

鎌倉の問注所の場所

鎌倉にある問注所へ行ってきました。
問注所は中学校の日本史で習うように裁判や訴訟を扱っていた鎌倉時代の行政機関です。

 

問注所跡のまとめ
  • この問注所跡は源頼家が正治元年(1199年)に移転させた地
  • 源頼朝が当初設置した問注所の場所は大蔵幕府の東西の建物で別の場所だった
  • かつて『十六夜日記』の作者で知られる阿仏尼も裁判でこの場所へ
スポンサーリンク

鎌倉にある問注所へ行ってみます

鎌倉の問注所の場所

場所は御成小学校のすぐ脇のマンションの一角にあります。
石碑は付近に信号があり、気がつかずに通り過ぎてしまいそうです。

 

鎌倉の問注所

鎌倉でよく見かける石碑と同じ形をしています。
近くに寄って見てみます。

 

鎌倉の問注所の石碑

問注所跡地の石碑です。
問注所舊跡とあり、舊跡(きゅうせき)は歴史の建造物があった場所を差します。

 

鎌倉の問注所の石碑の文字

この原文には

”元歴元年源頼朝幕府東西ノ廂ヲ以テ訴訟裁斷ノ所ト為ス之ヲ問注所ト稱ス其ノ諸人群集シ時二喧噪二渉ルコトアルヲ厭ヒテ正治元年頼家之ヲ邸外二遷ス此ノ地即チ其ノ遺蹟ナリ 大正六年 三月建 鎌倉町青年會”

とあります。
ここでの難しい漢字を解説すると

  • 廂(ひさし)..建物から軒に差し出た部分
  • 稱(しょう)..称する
  • 喧噪(けんそう)..騒ぎ、騒がしいなど
  • 厭ヒ(いとひ)..嫌がる

では、文章を現代の言葉に直してみます。

元歴元年(1184年)源頼朝は幕府(大蔵幕府)の東西の廂を訴訟を扱う裁判所とした。そこでは多くの人が集まったため時には騒ぎが起きていました。これを嫌がった源頼家は正治元年(1199年)に邸外に移し、この場所がその遺蹟となる場所です。

 

つまり、元々は大蔵幕府の東西に問注所を設置したものの、2代将軍の源頼家がここに問注所を移したということです。
元々は鎌倉の大蔵幕府に問注所を設置したのが最初です。

『吾妻鏡』には

 

”建久十年四月大一日壬戌。被建問注所於郭外。..以善信家爲其所。今又被新造別郭云々。”『吾妻鏡

 

と記載があり、問注所を幕府の外に建てたとあります。
そして善信の家を仮の問注所として使い(善信の家を以てその所となす)、また新しく問注所を建設したと書かれています。

では、善信は誰なのかと言えば、少し前の『吾妻鏡』に

 

”建久二年正月大十五日甲子。

…問注所執事
中宮大夫屬三善康信法師(法名善信)”

 

と建久二年である1191年の問注所執事であり、出家名だといえます。

 

そして問注所での訴訟については『吾妻鏡』に

”建久十年四月大十二日。….於向後大少事。北條殿。同四郎主。兵庫頭廣元朝臣。大夫属入道善信。掃部頭親能。三浦介義澄。八田右衛門尉知家。和田左衛門義盛。比企右衛門尉能員。藤九郎入道蓮西。足立左衛門尉遠元。梶原平三景時。民部大夫行政等加談合。可令計成敗。其外之輩無左右不可執申訴訟事之旨被定之云々。”『吾妻鏡

とあり、今後訴訟の判断は以下の決められた者達(一部抜粋)が会議をして決断するとあります。

  • 北條時政
  • 北条義時
  • 大江広元
  • 三善善信
  • 和田義盛
  • 比企能員
  • 安達盛長
  • 梶原景時等

これらのもの以外が訴訟を扱うのは良くないと決めたとあります。

 

スポンサーリンク

元々の問注所の場所は大蔵幕府の東西の廂(ひさし)付近

元々の問注所は大蔵幕府におかれたことがわかりました。
大蔵幕府は治承4年(1180年)に源頼朝が開きました。

 

大蔵幕府跡地

大蔵幕府の場所は現在の鎌倉にある鶴岡八幡宮の東側にある「清泉女学院 小学校」の付近です。

 

東御門跡地の石碑

この清泉女学院の東側にはかつての大蔵幕府の東門があり「東御門旧跡碑」が残されています。

 

西御門跡地

またこの清泉小学校の西側の横浜国立大学小学校の東側の道路沿いには「西御門旧跡碑」があります。

 

問注所跡地の石碑には”幕府東西ノ廂ヲ以テ”とありますから、この東御門旧跡碑〜大蔵幕府跡〜西御門旧跡碑の付近に最初の問注所があったのではないかと予想できます。

 

スポンサーリンク

『十六夜日記』で知られる阿仏尼もかつてこの地の問注所へ

中世三大紀行文の『十六夜日記』で知られる阿仏尼もかつてこの問注所へ通ったと思われます。
阿仏尼は鎌倉中期の人物で弘安2年(1279年)京都から三島や箱根を通り、ここ鎌倉までやってきました。

その理由は、阿仏尼は為家死後に播磨国にあった細川荘という地の相続問題が発生し、藤原為家の子の二条為氏がこの地を押領したことに対して鎌倉幕府に訴えるためです。
阿仏尼は藤原為家の側室であり、後に子である為相が生まれましたが、先の妻の子である為氏が遺産を相続したことを訴えに来たのです。

 

阿仏尼邸跡地の石碑

その際に現在の極楽寺駅南の踏切付近にあったこの画像の阿仏尼邸跡地からここ問注所へ通った言われます。
阿仏尼は鎌倉中期の人物でありますから、最初の問注所であった「大蔵幕府の東西の廂」ではなく、御成小学校前にある源頼家が移設した問注所跡地(一番上の画像の場所)に通ったと思われます。

阿仏尼は結局裁判の結果が出る前に鎌倉で没したと言われています。

 

スポンサーリンク

アクセス方法

鎌倉の問注所跡

出所:google map

アクセス方法は鎌倉駅の西口から徒歩10分程です。
また近くにはコインパーキングもあるため自動車でもアクセスできます。

ただ鎌倉市街地は道路が狭く、人通りが多いため自動車でのアクセスは運転に注意をして下さい。