鎌倉の若宮大路にある段葛へ行ってきました。
鎌倉へ旅行をすると「この真ん中の道って何?」と疑問に思うことがありますが、その道が段葛です。
これは鎌倉時代の1183年に源頼朝が北条政子の安産を祈願して造った若宮大路の石や土を使って北条時政や源氏家の多くの武将が造ったものです。
鎌倉観光をすると実は鎌倉時代や幕府にとって非常に重要なものでもあります。
- 1183年に源頼朝が妻の北条政子の安産祈願で若宮大路とともに造った
- その際には石や土を源氏家や北条時政など御家人が運んだ
- かつては南側の由比ヶ浜の鳥居まであったが、明治時代初頭にその部分はなくなった
鎌倉の若宮大路にある段葛へ
段葛は若宮大路の真ん中に石垣で少しだけ高くなっている道のことです。
観光をしていると「何でここだけ高くなっているんだろう?」と多くの人が疑問に思うでしょう。
そこで段葛の石碑がある二の鳥居へ行ってみます。
この写真の場所が鶴岡八幡宮の二の鳥居です。
ここは春になると満開の桜の一本道ができます。
春はここを歩いて鶴岡八幡宮まで参拝されると良いでしょう。
さて、話を戻します。
鳥居の後ろに「段葛」と書かれた石碑があります。
この石碑に書かれた文字をここに起こしてみます。
“段葛だんかづら一二置石ト稱ス壽永元年三月頼朝其ノ夫人政子ノ平産祈禱ノ為鶴岡社頭ヨリ由比海濱大鳥居邊二亙リテ之ヲ築ク其ノ土石ハ北条時政ヲ始メ源家ノ諸将ノ是ガ運搬二従ヘル所ノモノナリ明治ノ初年二至リ二ノ鳥居以南其ノ形ヲ失ヘリ”
とあります。
現代語に訳すると
”段葛(だんかずら)は置石とも呼ばれており、1182年3月に源頼朝が妻である北条政子の安産祈願のために鶴岡八幡宮から由比ヶ浜の大鳥居の付近まで造ったものです。その土や石を北条時政や源氏家の多くの武将たちが運び造られました。 明治時代の初頭に第二の鳥居から南の道が無くなりました。”
となります。
この内容は鎌倉時代の『吾妻鏡』にも記載があります。
”養和二年三月大十五日乙酉。自鶴岳社頭。至由比浦。直曲横而造詣往道。是日來雖爲御素願。自然渉日。而依御臺所御懷孕御祈故。被始此儀。武衛手自令沙汰之給。北條殿已下各被運土石云々。”
と源頼朝が安産を祈願して鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで若宮大路を造ったものだとわかります。
段葛はここから鶴岡八幡宮の第三の鳥居まで続いていきます。
この段葛はかつて石碑に書かれていたように南側にも続いていたようですが、明治時代に無くなります。
段葛から内側の通路を見ると石が組んであります。
若宮大路の外側から見てみると、大小の石が組み合わせて積まれていることがわかります。
だいたい1mほど若宮大路よりも高くなっています。
途中に若宮大路から段葛に入りました。
段葛は所々に階段があり、横断することができます。