鎌倉時代の幕府、宇津宮辻子幕府跡へ行ってみる。

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鎌倉幕府の二番目の幕府です。
鎌倉幕府の中では大蔵幕府の次の幕府で、移転に際して揉めたという歴史があります。

関連:鎌倉幕府の場所と史跡を巡る『大蔵幕府⇒宇都津宮辻子⇒若宮大路幕府』編

 

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宇津宮辻子幕府跡へ

宇津宮辻子幕府跡

宇津宮辻子幕府は若宮大路から少し脇道に入って50m程の距離にあります。
この付近は人も少なく、若宮大路よりもひっそりと佇んでいます。

 

宇津宮辻子幕府跡の石碑

これが石碑です。
この宇津宮辻子幕府は「大蔵幕府」より移転した幕府です。

 

宇津宮辻子幕府跡の石碑

これが石碑です。
「宇津宮辻幕府舊蹟」とあります。

 

宇津宮辻子幕府跡の石碑の文字

ここに書かれた文字は

”鎌倉ノ幕府ハ始メ大藏二在リシカ嘉禄元年政子ノ薨シテヨリ之ヲ他ニ遷サントノ議起リ乃チ時房泰時等巡檢評議ノ末同年十一月此ノ地二造營十二月将軍藤原頼經此二移リ住ス爾後嘉禎二年頼経再ビ之ヲ若宮大路二遷セルマデ天下ノ政令ノ此二出ヅルモノ凡テ十二年ナリ”

とあります。

 

現代語に訳すと、
”鎌倉幕府は始めは大蔵幕府にありましたが、嘉禄元年に北条政子が亡くなってから幕府を他の場所に移そうとの議論が起こりました。北条時房と北条泰時らは議論をした後、同年十一月この場所に幕府を造り、十二月には将軍藤原頼經がここに移り住みます。その後、嘉禎二年藤原頼経は再び幕府を若宮大路に遷すまでの十二年間は幕府の政治はここで行なわれました。”

 

この後には「若宮大路幕府」へ移されます。
宇津宮辻子幕府から若宮大路幕府は約200m程の距離にあります。

・アクセス:宇津宮辻子幕府

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宇津宮辻子幕府の場所に関する歴史書『吾妻鏡』の記載

宇津宮辻子幕府について『吾妻鏡』に記載があります。
興味深いことにその中では「幕府を遷すこと」について、大蔵幕府が最上の地であり遷す必要が無いとの議論があったことが書かれています。

“嘉祿元年十月大三日庚寅。雨降。相州武州參御所給。當御所可被移於宇都宮辻子之由。有其沙汰。又可被建若宮大路東頬歟之旨。”『吾妻鏡

とあり、まず1225年に若宮大路の東側に御所を移す話し合いが始められます。
これは上記で紹介した石碑に”之ヲ他ニ遷サントノ議起リ乃チ時房泰時等巡檢評議”とある部分だと推測できます。

 

”嘉祿元年十月大四日辛卯。..相州武州相具人々而。宇都宮辻子并若宮大路等。令巡檢。而始被打丈尺。”『吾妻鏡

と北条時房と北条泰時が宇都宮辻子と若宮大路を調べ歩き、距離を測っていました。

 

しかし、

 

“嘉祿元年十月大十九日丙午。…爰地相人金淨法師申云。右大將家法華堂下御所地。四神相應最上地也。何可被引移他所哉。然者彼御所西方地被廣。”『吾妻鏡

 

と金浄法師が「幕府の移設」ではなく「法華寺の南にある現在の幕府が最良の場所です。四神最上*の土地であることから西側に御所を広げたほうが良いです」と伝えます。

*四神最上とは北に山、東に清流、南には開けた低地、西には大きな道がある土地が望ましい。平安京はこの造りがされている。

大蔵幕府の場所は北に法華寺と山、東に滑川、南は相模湾、西は武蔵大路があり、四神最上の土地です。
そのため金浄法師はこの大蔵幕府からの移転には反対したのだといえます。

上記の石碑には”時房泰時等巡檢評議ノ末同年十一月此ノ地二造營”とありますが、この石碑に書かれた議論の結論が出るまでにはこういった過程があったことは大変興味深いことです。

 

この後には『吾妻鏡』によると陰陽師の占いを行い、この宇津宮辻子幕府へ遷すことが決まります。
嘉禄元年の12月にはこの幕府への引越しが行なわれます。