「耳をすませば」の舞台となった聖蹟桜ヶ丘巡りとタイトルの理由の考察と感想

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聖蹟桜ヶ丘の街並

分かる人にはきっと分かるであろう、ジブリ「耳をすませば」のロケ地「聖蹟桜ヶ丘」を実際のアニメのシーンと照らし合わせてみようと思います。
またなぜ題名が「耳をすませば」なのかを物語やシーンから考えてみたいと思います。

 

今回訪れた地図マップも掲載しているので聖蹟桜ヶ丘をいつか訪れてみたい人や「耳をすませば」が好きな人はぜひ参考にして欲しいと思います。

 

*聖蹟桜ヶ丘は立ち入り禁止の場所がある他、住宅街が中心ですから迷惑になる行為はしないようにしましょう。

 

 

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まず今回巡った「耳をすませば」のモデルの地図マップ

耳をすませばのモデルマップ

今回紹介する「耳をすませば」でモデルになったであろう場所です。
写真を撮った場所は☆マークで印してあるので、これから行かれる方は参考にどうぞ。

 

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【分かる人には分かる】聖蹟桜ヶ丘で行くべき「耳をすませば」のモデルとなったであろう場所

いろは坂の入り口

いろは坂の入り口

ここは映画では主人公の雫が図書館へ向かう際に通るいろは坂の入り口部分です。
現在は大栗川に掛かる陸橋の右側に旭寿司という寿司屋が入っています。

 

いろは坂の階段

いろは坂の階段

映画のシーンでは主人公の雫がこの階段を駆け下りるシーンがあります。
実際には映画のような急な階段ではなく、比較的なだらかになっています。

 

聖蹟桜ヶ丘のいろは坂

ここがいろは坂の頂上です。
ここから階段を下りることができます。

 

杉浦が玉砕した神社

杉浦が玉砕した神社

いろは坂を登って階段横を左に曲がると「金比羅宮」があります。
ここが野球部杉浦が雫に告白して玉砕してしまう神社にそっくりです。

 

杉浦が玉砕した神社

すみません、指が入ってしまいました笑
映画とほぼ同じ造りをしており、また背景には森があるところもほぼ同じです。
やはりここがモデルになったのではないかと思います。

 

いろは坂の頂上の分岐

耳をすませばに登場する道路

ここは映画のシーンで一瞬だけ登場する場所です。
映画と実際の景色がそっくりですから、まさにここをモデルにしたのだと思います。

ちなみに、この周辺にはかつて関戸城というお城がありました。

 

地球屋から見える夜景に近い景色(映画OP)

バイオリン小屋から見えた夜景の場所

ここは映画のオープニング(OP)で登場する猫が横になっているテラスのある地球屋から見える夜景にそっくりです。
川の曲がり方や聖蹟桜ヶ丘の街並や夜の夜景もまさにそっくりです。

ちなみに「秘密の場所」「地球屋からの景色」もそうですが、耳をすませばでは高台からの眺めの「標高が高く」なっています。
しかし、実施にモデルの地域から見る景色はもう少し低くなっています。

 

夜に雫と天沢が一緒に歩くシーン

耳をすませばで2人で夜に歩いた道

天沢聖司と雫が夜に自転車を押して歩くシーンがあります。
その場所としては「ここがそうなのかな?」と思います。
ここは背景に聖蹟桜ヶ丘の町が見えませんが、高台にあることや後ろの柵がやや似ています。

 

大栗川と雨雲

大栗川

映画のシーンに雫が大栗川沿いを雷雲に向かって歩くシーンがあります。
そのシーンの場所はまさにここだろうと言えます。

実際に夏期にこの大栗川から北西方面を眺めると奥多摩方面で積乱雲が発生し、青梅や秩父方面は豪雨になることがあります。
東京の聖蹟桜ヶ丘は練馬や三鷹付近でのゲリラ豪雨や関東山地である奥多摩や丹沢方面でできた雨雲が流れてきやすいので、あのシーンは創作というよりも本当に東京の姿を見事に再現していると言えます。

 

秘密の場所?にそっくり。

この山の上のコンクリートの段々の部分が最後の告白する秘密の場所に似ています。(人は入れません)
この画像の左側の坂が、最後に秘密の場所へ行く時に2人で自転車を押して行くシーンに似ているので、もしかするとここをモデルにしたのかなと思います。

 

あのシーンは「俺と結婚してくれないか!」というセリフが良いですね、もし「付き合ってくれ」だったら何だか中学生らしい純真さを表現できなかったのではないかと思います。
若い2人の物語を「俺と結婚してくれないか!」という無鉄砲なセリフで締めくくったので、ハッピーエンドになったのだと思います。
現実的なセリフだと物語にならないんですよね。

 

この写真は南方向を見て撮影しているので、実際に丘に立つと北東側の景色が見られますから、映画最後の朝日を2人で見に行くシーンに近い景色が見られます。

映画のシーンでは「多摩川」と「関戸橋」が見られますから、多分ネットで紹介されている秘密の場所ではなく、私はコッチが正解だと思います。
このシーン見られる川が大栗川だとすると、川幅が大きすぎますから、途中で出てきた大栗川と別物になってしまいます。
最後のシーンで高台から見える川は「多摩川」と「関戸橋」がモデルだろうと思います。
多摩川と関戸橋は最初のオープニングのシーンでも出てきます。

そのため私は最後の秘密の場所のモデルはここなんじゃないかな?と予想します。

 

もう1つ言うと、映画では息が白く寒い中上着を着てここまで向かっていますから、季節は晩秋〜早春だと思います。
そう考えると太陽はやや南東方向から出るはずなので、ここからは朝日が見られないはずです。
そう考えると、その点は映画に合わせて朝日が出る位置を修正されたのかもしれません。
他に聖蹟桜ヶ丘で朝日が見られる場所はもうないはずですから。

もちろんこの場所がモデルならば、の話ですが。

*追記:現在はこのようになっています。

耳をすませばの秘密の場所

足場のコンクリートが白くなっています。
あの色が落ちた土色のコンクリートが映画のシーンとそっくりだったので、変わってしまったのかと思います。

 

ロータリー

耳をすませばにそっくりなロータリー

映画の中では地球屋があるロータリーです。
現在は交番や郵便局があります。

映画のシーンではここにある地球屋に入ると高台のテラスからは聖蹟桜ヶ丘の街並が見えますが、ここは住宅街の中にあり映画のような眺めを見ることはできません。

映画ではここが地球屋のある場所ですが、テラスから見える景色は別の場所から見える風景(地球屋から見える夜景に近い景色)を使っていると思います。

 

坂道を二人乗りの自転車で登るシーン

耳をすませばの坂を二人乗りするモデルの場所か

最後に自転車に二人乗りして坂を一緒に上っていくシーンがありますが、ここがそのシーンのモデルかなと思います。(映画では右には何もありません)

映画のシーンでも後ろに聖蹟桜ヶ丘らしい街並とうっすらと山並みが見えます。
そうすると大栗川のシーン(このシーンも西向き)から考えて、この画像のように西向きになるので、この場所はまさに山の風景も聖蹟桜ヶ丘の街並も方向性もピッタリになります。

 

この場所は、聖蹟桜ヶ丘駅から旭寿司を左(東)に曲がって川沿いを行った所の急な長い坂です。

映画では自転車を押すくらいの急坂ですが、ここも二人乗りをしたらきっと上がれないでしょう。(笑)
ここは最終シーンの「秘密の場所」と思われる場所に向かう際にも、実際に通る場所なのでモデルになったのではないかと予想できます。

 

 

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『耳をすませば』という題名の理由は『心のささやき』にあると予想

なぜ題名が「耳をすませば」なのか考えてみたいと思います。
私は『耳をすませば』という題名(タイトル)には映画で伝えたかった何かの意味があるのではないか、と勝手に思っています。

 

興味深いことに「耳をすませば」は英語タイトルでは「Whisper of the heart」と言います。
つまり、直訳すると『心のささやき』という意味です。

 

この英題を聞くと「耳をすませば」が何に対して耳をすますのかよくわかります。
日本語だと「耳をすましてどうするんだろう」「なんで耳をすますのだろう」と思いますが、英語の題名「Whisper of the heart」を聞くと「自分の心」に耳をすますということがわかります。

 

 

映画を見ていると、この「自分の心」とは、「心の声・自分が行きたい道、やりたいこと・運命や縁、偶然」だろうと言えます。
実際に映画ではこの耳をすませば聞こえてくる、見えてくる「心のささやき(Whisper of the heart)」が頻繁に描写されているからです

 

例えば映画のシーンには、

  • 主人公が借りる本の貸出票に偶然天沢聖司の名前が多いことで存在を知ること
  • 駅で見かけた猫を偶然見かけ追いかけて聖司のバイオリン(地球屋)に行き着くこと。つまり、猫が縁を運んでくれた
  • 地球屋の老人が天沢聖司の祖父であるという偶然
  • 地球屋に忘れた弁当を主人公に渡すシーン
  • 夕方に偶然出会いバイオリン修行に出ることを告げるシーン。
  • 雫が受験前に「自分で物語を書きたい」という心の声に従って、受験勉強を中断する
  • 早朝に窓を空けると偶然マンションの下に天沢聖司が自転車で来るシーン。飛行機を偶然一日早くしたため出会うことができた。

があります。

 

また映画の中には面白いセリフもあります。

「このネコの男爵には連れがいる。恋人同士を引き離すことはできないってね。(運命のこと)」
「恋人の人形が戻ってきたら、彼女がひきとって、二つの人形を、きっと一緒にするからって。(運命のこと)」

 

 

さらに、自転車で秘密の場所へ向かう際のセリフには

  • 天沢聖司「雫に早く会いたくてさ、何度も心の中で呼んだんだ。“雫”って!ホントに雫が顔を出すんだもん。すごい、俺達!」
  • 雫「私も会いたかった、夢みたい!」

この天沢聖司のセリフ「心の中で呼んだ」=「心のささやき」と対応しています。

 

 

最後に、日本語のタイトル(「耳をすませば」)は映画に出てくる《いつか必ずめぐり逢う恋人たち。聞こえてくる声、ほら、耳をすませば》ここから取ったのでしょう。

しかし、またここで『いつか必ずめぐり逢う恋人たち』=『運命』のことを表しています。

 

 

振り返って見ると、この映画には「運命」「偶然」「心の声」が非常に強調されて多く描写されています。

 

つまり、作者は「中学生の甘酸っぱい恋模様」を伝えたいのではなく、

  • 「自分に正直に生きる=心のささやき(雫が物語を書き、聖司がバイオリン職人を目指す)」
  • 「自然に任せる=縁や運命、偶然(雫と聖司の出会いや偶然の再開)」

こういったものを大事にして欲しいということを映画のシーンで描写されることで、視聴者に示していたのではないでしょうか?

そうでなければ、これだけ「心のささやき」がキーワードになるような多くのシーンやセリフが出てこないはずです。

 

 

この偶然の多さがNAVERまとめなどで「天沢聖司」がストーカーだと言われる理由だろうと思いますが、実はそれこそがこのストーリーの描写で表したかった『運命』『定め』『縁』といった「心のささやき」の部分なのではないかと私は思います。

 

 

この「耳をすませば」が多くの人に愛される理由も、天沢聖司と雫が自分の心に素直に従って、それぞれの望む道を自分ができる精一杯の力で頑張るからであり、その純真な姿は私達の心に強く響き、通じるものがあるからだと思います。

 

この映画を見てしまう理由も、中学生の甘酸っぱい恋物語を見たいのではなく、この映画を見ているとそれぞれの登場人物が「心」を大事にしていることがよく分かるからです。それが心に響くので、80年代の映画にも関わらず、今も人気がある映画として残っているのでしょう。

 

これが「心のささやき」であり、「耳をすませば(whisper of the heart)」で最も伝えたかったことではないかと思います。

 

秘密の場所での「俺と結婚してくれないか?」という最後のセリフの意味

最後のシーンに秘密の場所で聖司が「俺と結婚してくれないか?」と言うシーンがあります。
もしここで「付き合ってくれないか?」と言ったら「耳をすませば」は台無しになっていたと思います。

 

それはこの映画の主題である「耳をすませば」聞こえてくるのは「心のささやき」ですから、聖司は正直な気持ちを伝える必要があるわけです。
常識なら「付き合ってくれ」と言うはずですが、この映画では「耳をすませば(心の声が聞こえる)」ことが主題ですから、「付き合ってくれ」というセリフをすっ飛ばして「結婚してくれ」ということセリフにしないといけないんでしょう。

 

「結婚したいくらい好きな女の子」に「結婚してくれ」と正直な心の声をそのまま相手に伝えた部分に『耳をすませば』の本題があるんでしょう。
そして最後のシーンは雫が「そうなれたらいいなって思ってた」と言うと「大好きだ」と聖司が言うように、自分の心の声に素直になった2人のシーンで終わりが来ます。

 

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なぜ『耳をすませば』を見ると鬱っぽくなるのか?

『耳をすませば』が金曜ロードショーで放送されるとTwitterで「鬱っぽくなる」「落ち込む」「中学生の時にこんな恋愛をしたかった」といったつぶやきが目立ちます。
なぜ鬱っぽくなってしまうのかと言えば『耳をすませば』はただの中学生の恋愛ではなく、「耳をすませば」聞こえてくる心の声(wisper of the heart)に正直に生きた男女の2人が眩しく見えるからです。

 

聖司がバイオリン職人をひたむきに目指し、雫が受験勉強を中断してでも自分が書きたい物語を書いた2人が、まさにこの主題である「耳をすませば」を表していたからですね。
もし2人が何も目指さずに恋愛をしていたら感動はないですし、そうであれば『耳をすませば』という題名がつかなかったと思います。

 

『耳をすませば』は英題の「自分の心のささやき」を聞くことで、それがこの2人の行動によく表れています。
ジブリの映画は『もののけ姫』のアシタカ、サンや『魔女の宅急便』のキキ、トンボのように強い意志を持った主人公が表れますが、『耳をすませば』も同じように、強い意志を持って自分に正直に生きた中学生の恋愛だからこそ、観ている人を「こんな恋愛がしたかった」と鬱っぽくさせるんでしょう。

 

土日の前に気分を落ち込ませるこの『耳をすませば』の魅力は、「耳をすませば聞こえてくる自分の心の声に素直に向き合った男女の物語」とそれを知っている人を鬱っぽくさせてまでも訴えかけるような2人の眩しさがあることでしょう。

 

 

もちろん、本当の真意は作者やその関係者しかわかりませんが、映画の描写やタイトルからそのように考察してしまいます。

以上が私の妄想です。責任は持てませんが。笑

 

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最後に

「ジブリ好きには悪い人がいない」なんて言葉がありますが、それはこういった心の機微について感受性が高いからだろうと思います。
ジブリの映画は世界観に独自性があるほか、登場人物の心の在り方には一貫性があり、それは1つの作品全体において表現されています。

『耳をすませば』もそれを体現した1つの映画だと言えるでしょう。

 

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