技術の進歩は人間をダメにする?!機械に知識を預けると考えられなくなってしまうのだろうか?

私の友人がカレーのスパイスの原料を買って0からカレーライスを作って食べたようで、そのカレーが美味しかったが非常に苦労したと言っていました。

私はレトルトで作る人間だったので、その時に『私が今まで食べたのは本当のカレーなのか』「そういえばカレーのルーはどうやって作るのだろう」と疑問に思いました。

その時には「自分はカレーについて何も知らないんだな」と感じたことを覚えて追います。

現代は「人間が積み重ねた情報が頭の中にほとんど入っていない状況でも生きて行ける」世界になりました。機械が人間の頭になり、情報を蓄えて、人間に提供する時代です。

しかし、「人間の頭が空っぽになると、大きな問題を引き起こすのでは」とも思います。やはり人間は知識や知恵を機械に預けたことで便利になりましたが、その反面人間らしさや人生の豊さなどを失うキッカケになるのではと思います。

 

 

私が小さい時は携帯電話がまだ無く、その時は友人を遊びに誘う際に家電をかけることがありました。その時はA君の家は◯◯で、B君の家は××とそれぞれの電話番号を完璧に覚えていました。しかし、今はスマートフォンがその役割を負っていますから覚えるということはなくなりました。

もっと他の例で言えば、料理が当てはまります。昔はお米をかまどや鍋で作っていましたが、今は炊飯器が普及しています。生活が便利になるという観点からは良いのですが、お米という日本人が日常的に食べる食材の調理方法を自分で把握しなくなったという問題があります。「はじめちょろちょろ中ぱっぱ 赤子泣いても蓋取るな」というご飯を美味しく炊くための言葉がありますが、現在の若い人はこういった言葉を知らなくなって来ています。

 

つまり、【技術の進歩によって、家電製品などの機械に本来人間が持つべき知識や知恵を機械に預けてしまった結果、人間自身がその知恵や知識を持たなくなってしまった】という問題です。

 

先日、私の友人の女性に居酒屋のメニューに載っていた魚(サバ)の画像を見せたところ「何の魚かわからない」ということでした。

サバを知らなくても生きて行けますが、サバを知らないと言うことはサバの鮮度の見方やサバの料理の作り方もしっかりと分かっていないと言えます。サバを捌いた経験があれば、どの魚がサバなのかわかるはずですから。

サバは刺身で食べるには適切な処理をしないといけない魚で、アニサキスなどの寄生虫やヒスタミン中毒などの心配もあります。一般的に頻繁に食べられる魚ですから、その鮮度の見方(模様が残っているか、エラの色など)や適切な調理方法は知っておかないといけません。

専門知識が一部の人しか持っていない状況なら問題ありませんが、多くの人が普段使う知恵や知識を普通の人が持っていない状況は問題が起こるのではと思います。

 

 

知識があると知識が邪魔をして突飛な発想ができないということがあります。子供が大人がハッとする発想をするのは1つに大人が知識や常識を持っているためだと言えます。

しかし、知識が無い場合は、前提となる知識が無いことで深く考えることができなくなります。私も体調を崩す前は医者が病気や症状を治すものだと思っていましたが、これまでの人間の歴史の積み重ねや社会の構造、人間の体のことを考えれば、医者では治せないということがわかりました。

残念なことにこういった考え方は、それについて必死に考えることで明白になるものですが、助けになる知識が無かったり、それまでの常識があると本来の答えに辿り着かないことが有ると思います。

今回の件も、お米の炊き方を知らないということはお米を美味しく炊くことができないわけですし、さらにサバを知らないということは美味しくサバを調理することができません。

専門的な知識や技術などを除いて、人が本来持たないといけない知識や知恵が無いと人の生活は豊かになりにくいのではないか、とも思えます。

 

なぜこうなったのか?

昔の人は生活に必要なことは知恵や知識として後世に伝えるようにしていました。しかし、こういった「後世からの情報が価値を持たないもの」という認識が広がったことが原因だ思います。

本当は後世からの歴史、言葉や詩、民話なども意味があったのですが、「古いものは価値がない」という間違った情報・価値観が広がったのでしょう。

本来は古い情報は貴重でそこには人間が長い間生活をしてきた中で積み重ねた物があります。人間は昔から食料を必要として、寝床となる住居が必要で、そのために集団を作るということも行なって、しばしば争いも起こってきました。人間は大きく変わらないので、昔から伝わっている情報に、人間を見る上で必要な重要な核となる要素が詰まっているともいえます。

しかし、いつしか新しいことは素晴らしいという考え方が広まり、古い情報を隅に寄せてしまった、さらに、技術が進化していく過程で、技術が代行できるような知識などの情報を機械に預けた結果、人が情報の重要性の判断が出来なくなったのではと思います。

お米に水を浸してボタンを押すだけの炊飯器があれば「はじめちょろちょろ中ぱっぱ 赤子泣いても蓋取るな」という言葉は不要になります。

今の時代は、毎日自分でお米を炊く時に、炊き方の重要性が分かりますが、炊飯器が炊くようになると炊き方なんてどうでもいいわけです。

今は機械が中心となって、火加減の温度調整も蒸らし加減も全て炊飯器が行ないます。

かつては人間の手作業があって情報が蓄積されていましたが、これが機械あっての情報の蓄積に変わったのです。

 

何が問題か?

人間の上での研鑽が進まない、つまり人間の手を離れて機械を通しての技術の進歩だけが起きるので、万が一、人間の文明が石器時代に戻った時には人間の頭の中には何もなくなっていることも問題です。

また、人間が積み重ねて来た情報(知恵や知識など)を知らないということは、過去の人々に対しての畏敬の念を忘れてしまうことや人間としての深みがなくなるのではないかと感じます。

人と話していると、どんなことにも「それは古い」と一喝する人が居ますが、確かに古いことで意味をなさないことがあります。しかし、中には「古い」というだけで捨てられない重要な情報もあります。

つまり『古い物が無価値である』という考え方を不変のものとして認識しているのだと思います。これは過去の歴史も言葉も歌などもそういったものとして一喝して切り捨ててしまう点では、過去に対しての尊敬も無いと言えます。

古い情報にも『意味をなさないもの』『意味があるもの』という選別の過程がその人にあれば古い情報をただ「古い」と断言しないわけです。

「古いものにも価値が有る」ということを知っていれば、その言葉を作った当時の人や生き方にも関心を持つようになります。人の頭中から人間の積み重ねが消えることで、過去との繋がりも薄くなってしまうのではと感じています。つまり、人間の連続性の遮断です。

 

 

これからの世の中はAI、人工知能が多くの分野で進出してきます。

機械に全てを代行させる技術(かまどはOKで、炊飯器はNG)が浸透すれば、人が覚えるべき情報も変わって行きます。その時は人間の生活だけではなく、人の姿そのものも変えてしまうのではないかと思っています。

 

 

まあ、いつのもようにまとまらないのですが、機械は生活を楽にしてくれますが、人間がどこまでコミットすれば良いのかについては議論の余地があると思います。